2018年3月4日

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。」ヨハネ15:1

 

 主イエスは、弟子たちが新しい教会の指導者となる時に、主につながっていれば豊かに実を結ぶ、と言われます。

 

 「まことのぶどうの木」は、旧約のイスラエルが「酸っぱいぶどう」(イザヤ5:2)や「悪い野ぶどう」(エレミヤ2:21)になったので、「本来あるべきぶどう」として、農夫である父なる神によって植えられ(→3:16)、「手入れ(剪定)」して実を結ばせられます。

 

 ぶどうの枝(弟子たち)は「既に清くなっている」(→1310)ので、大切なのは、「木に(継続的に)つながっている」ことです。そうすれば、「その人は豊かに実を結ぶ」ことが出来ます。「私たちはキリストの外にいる限り、どんな良い実りももたらすことはない」(カルヴァン)でしょう(洗礼から成長へ!)

 

 実りの豊かな教会のキーワードが3つあります。①「望むものを何でも願」うこと(祈り)。父なる神は豊かな収穫で「栄光をお受けに」なります(一反で何俵と自慢する農夫!)。②「愛にとどまって」いること。③「喜びが満たされる」こと。主につながっている教会は成長します(これからの福山教会!)。

 

 教会は主イエスを中心にした集まりです。「ひとつのみかて(御糧)ともに受けて」(パンとぶどう酒!)、「君の来ますを切に祈」(讃191番)って待ちます。

2018年3月11日

「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」ヨハネ1516

 

 主イエスが去られた後、弟子たちは自立を迫られますが、主が彼らを選んで下さったのですから安心してよいのです。

 

 彼らは「互いに愛し合う」(→1334)べきですが、具体的には「友のために自分の命を捨てる」(主の十字架!)ことです(命を削るほどの労苦→Ⅱコリント1116以下)。今の彼らは、主から「僕とは呼ばない…友と呼ぶ」と言われるほどに成長しましたが、3年半前に主に選ばれ(→1:35以下)、「出かけて行って実を結び、その実が(いつまでも)残るように…任命」されたのです。「互いに愛し合い」つつ伝道すべきです(不肖の弟子→主に肖(に)た弟子たち)。

 

 「世があなたがたを憎むなら…」と主は予告され、ご自分を憎んだ世の人々は彼らも憎むが、「僕は主人にまさりはしない」(1316)ので驚く必要はないのです。「理由もなく、わたしを憎んだ」(詩3519)とある通りです。「信ずる者は慌てることはない」(イザヤ2816)!

 

 そういう時でも、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者」(聖霊)が主を証しされるので、彼らも証しします(→Ⅰヨハネ1:1)。

 

 「汝ら我を選びしにあらず、我なんじらを選べり」(文語)と言われる主が私たちを用いられます(→出3:11以下)。「主のものとなりけり」(529)です。

2018年3月18日

「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」ヨハネ1633

 

 14章から始まった「別れの説教」の最後で、主イエスは弟子たちに勝利を語り、勇気を出すように、と励まされます。

 

 これまで主は、「たとえを用いて話して」来られましたが(→飛行機の話をするレオナルド・ダヴィンチ)、これからは「父御自身が、あなたがたを(友のように)愛しておられる」ので、「あなたがたはわたしの名によって願う」ことが出来ます(→「祈りの人」シンプソン)。

 

 御子イエスは、「父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」と、御自分が神と一体であることをはっきりと話され、弟子たちもそれに対して、「わたしたちは信じます」と答えます(GPSで自分の居場所が確認できるようになって安心するように!)。

 

 主は彼らの成長を喜ぶと共に、「今ようやく信じるようになったのか」と言われます。「弟子たちが余りにも有頂天になっているので、キリストは彼らを戒めておられる。」(カルヴァン) 「あなたがたが散らされて自分の家に帰」るようになっても、「わたしによって(主の懐の中で)平和を得る」でしょう。

 

 誰も皆「世で苦難がある」のですが、大丈夫です。主は苦難を受けて、「成し遂げられた」(1930)と勝利を宣言されます。「インマヌエル(神共にいます)の君」(161)が私たちの主です。

2018年3月25日

「父よ…すべての人を一つにしてください。」ヨハネ1721

 

 17章では、主イエスは先ずご自分のために(1-5節)、次に弟子たちのために(6-19節)、最後にこれから形作られる教会のために(2026節)祈られます。

 

 「彼ら(弟子たち)のためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々」とは、「ほかの羊」(1016)とか「ギリシャ人」(1220)と言われるユダヤ人以外のクリスチャンのことで、「彼らもわたしたち(御父と御子)の内にいるように」と祈られます(→Ⅰヨハネ1:3)。それを見て、神が「彼ら(教会)をも愛しておられたことを、世が知るように」なるでしょう(グローバルな教会→外国人の多い福山教会!)。

 

 そのクリスチャンたちを、「わたしのいる所(神の右の座)に、共におらせ…わたしの栄光を、彼らに見せ」たいと主は願われます(グローリアス《栄光に満ちた》教会→福山教会に誇りを!)。

 

 「正しい父よ」と呼びかけて、教会が世の中の御利益信仰に妥協せず、「(神の)御名を彼ら(弟子たち)に…これからも(新しい信者に)知らせ」て、彼らの信仰が成長するように、と主は祈られます(グローイング《成長を続ける》教会→成長する年長者は若々しい!)。

 

 「すべての(種種雑多な)人」を受け入る教会(若い牧師でも育てた!)は「栄えに満ちた神の都」(194)です。