2018年2月4日

「わたしのパンを食べている者がわたしに逆らった。」ヨハネ1318

 

 弟子たちの足を洗ってから、主イエスは彼らに、これからのことを話し、何が起こっても大丈夫なようにされます。

 

 一つのことは、彼らがやがて教会の指導者になった時の心得です。主が示してくださった模範にならって、「あなたがたも互いに足を洗い合う」べきです(→ルカ2226 「仕える者のように」)。

 

 もう一つは、ユダが裏切ること(→6:70)ですが、主は「どのような人々を選び出したか分かっている」と言われます。「この『分かっている』は、本来、神に属することである。」(カルヴァン)神の御子は、ダビデと同じように、大切に育てた弟子が「わたしにむかってそのかかとをあげた」(詩4110 口語訳)という場面に直面されますが、「わたしは(神で)ある」故に、大丈夫です。

 

 主は「心を騒がせ」ながらも、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と言い渡されます。「イエスの愛しておられた者」(使徒ヨハネ)にペトロが合図して、「だれのことですか」と尋ねさせ、主は「パン切れを…ユダにお与えに」なります。主は、迷うことなく、救い主として前進されます。

 

 「飼い犬に手をかまれる」ような思いをしながらも、主は弟子たちのことを心配されます。「我がため悩みを忍びたまいし…み神の小羊」(257)です。

2018年2月11日

「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。」ヨハネ1334

 

 ユダが去った後、主イエスは残った11人の弟子に、彼らだけになっても絶望せず、心を一つにせよ、と教えられます。

 

 ユダの裏切りが決定的になった時、主は「人の子は栄光を受けた…神も…栄光をお与えになる」と、十字架と復活と世界宣教の開始を宣言し(→1224「一粒の麦」)、弟子たちを励まされます。

 

 主は、「子たちよ…あなたがたはわたしを捜すだろう」と、これからのことを言い、「新しい掟」を示されます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と命じられます。「敵を愛しなさい」(マタイ5:44)と比べると、レベルが低いようですが、「友愛の絆が弟子たちの間ではるかに固く、より緊密に結ばれているのは当然」(カルヴァン)です。そうすることで、「あなたがたがわたしの弟子であること」を証しします(福山教会!)。

 

 ペトロは、「主よ、どこへ行かれるのですか」(クォ・ヴァディス?)と尋ねて、主から「あなたは三度わたしを知らないと言う」と予告されます。「今はついて来ることはできないが、あとでついて来る」と言われます(→2119)。

 

 旧約時代にも「愛の掟」(レビ1918)はありましたが、主は愛のサンプルとなられたので(→13:1)、「主よ、み手もて」(讃285番)と従うのです。

2018年2月18日

「あなたがたのために場所を用意しに行くといったであろうか。」ヨハネ14:2

 

 14章から16章までは「別れの説教」と呼ばれ、主イエスは弟子たちを安心させ、希望を持たせようとされます。

 

 主は、不安な彼らに、「心を騒がせるな」(→1321)と言い、「神を信じ…わたしを信じなさい」と勧められます。「私たちの信仰は、ただキリストだけに向けられるべきである。」(カルヴァン)「わたしの父の家(天国)には住む所がたくさんある…その道をあなたがたは知っている」と言われます(葬儀!)。

 

 トマス(→2024)は、「その道」を具体的に知ろうとしますが、主は「わたしは(真理と命の)道」だと言い、「わたしを知っているなら、わたしの父(なる神)おも知る」のだから、安心しなさいと言われます(そっくりな親子!)。

 

 フィリポ(→1222)は、他の弟子たちを執り成すように、「御父(なる神)をお示しください」と言いますが、主は「わたしを見たものは、父を見たのだ」と同じ答えをされます。そして、「はっきり言っておく」と念を押して、これから弟子たちは「もっと大きな業を行う」と予告され、「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう」とも約束されます(福山教会の将来!)。

 

 主は天に帰られますが、そこに住む所を備えてくださり、地上に残る私たちは「安かれ」(讃298番)と歌うのです。

2018年2月25日

「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。」ヨハネ1418

 

 心細くなっている弟子たちに対して、主イエスは、ご自分が決して彼らを放っておかない真の友だ、と言われます。

 

 別れに際して主の願いは、「わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る」ことです(恩師の教え!)。そのために主は「別の弁護者」として「真理の霊」を遣わし、「この霊があなたがたと共におり…内にいる」ようにし、彼らに対して「わたし自身を現す」でしょう。

 

 「イスカリオテでない方のユダ」(→マルコ3:18「タダイ」)が、「世にはそうなさらないのは、なぜでしょう」と質問します(他の人が気になる!)。主は、「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」のだから、今はその人たちに語るのだ、と言われます(→2121「主よ、この人は?」と質問するペトロ)。

 

 主は改めて聖霊について、「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が…わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」と語られます(使徒ヨハネ自身にも!)。まもなく「世の支配者」(サタン)が来ますが、大丈夫です。主は「平和(シャローム)を…残し」て行かれます(→マタイ28:20)。

 

 主は弟子たちを愛しておられ、彼らを「みなしご」(オルファノス)には決してされません。「慈しみ深き友なるイエス」(讃312番)に祈ることが出来ます。