コイノニア 2018

2018年1月7日

「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ…だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」ヨハネ1224

 

 エルサレムの神殿におられる主イエスを訪ねて、数人のギリシア人が来ます。主は世界宣教の開始を告げられます。

 

 彼らは、「イエスにお目にかかりたいのです」と、「ベトサイダ(ギリシア風の町)出身のフィリポ」に頼んで主の弟子になろうとします。彼は、友達のアンデレと共に主に紹介します(→1:44)。

 

 外国人への宣教の道が開けたのを見られた主は(→1011)、「人の子(イエス)が栄光を受ける時が来た」(十字架→復活→世界宣教)と宣言されます。主は、「一粒の麦」として(→Ⅰコリント1536)、「地に落ちて死」ぬことによって「多くの実を結ぶ」のだと、死を前向きに理解されます(私たちもそうありたい!→Ⅱコリント4:1618)。

 

 主は弟子たちに向かって、「永遠の命に至る」ために「この世で自分の命を憎む」生き方を勧められます。「私たちは絶えず目的を目指し…世の中を通り過ぎて行くなら、それで良いのである」(カルヴァン) 主は、「わたしに仕えようとする者は、わたしに従え」と、いつも主から離れずに歩む生涯が神の前に尊いのだと言われます(→マタイ2521)。

 

 私たちのために一粒の麦として死んでくださった主を見つつ、「われ何をなして主に報いし」(332)と歌いましょう。

2018年1月14日

「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。」ヨハネ1235

 

 十字架を前にして、さすがに主イエスも平気ではなく、心の葛藤を経験されますが(ヨハネ福音書のゲッセマネ!)、それに打ち勝って前進されます。

 

 主は、「わたしは心騒ぐ」と正直に言い、「父よ、わたしをこの時から救ってください」と心の中で考えても、それを打ち消して「父よ、御名の栄光を現してください」と言われます(→マルコ1436)。父なる神の「天からの声」が主を励まします(私たちの信仰生涯も!)。

 

 群衆は「雷が…天使が…」と見当違いの想像をしますが、主は「この声は…あなたがたのためだ」とされ、「今こそ…この世の支配者(悪魔)が追放され…わたしは…上げられ…すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と、十字架によって始まる救いを予告されます。「十字架は馬車のようであり、キリストはそれですべての人を父の所まで高くあげる」(カルヴァン)のです(十字架の塔!)。

 

 群衆は理解しないのですが、主はご自分がメシアであって、天にある光となって暗闇の世に輝くので、「光のあるうちに歩きなさい」と招かれます。私たちも「世の光」(マタイ5:14)になります。

 

 十字架を見上げつつ、天に帰った先輩たちを思い、「わが身も勇みて十字架を負い」(讃331番)と歌いましょう。

2018年1月21日

「だれも暗闇の中にとどまることのないように、わたしは光として世に来た。」ヨハネ1246

 

 ヨハネ福音書は12章の終わりで、主イエスのユダヤ人への伝道活動をしめくくります。主は最後まで、人々が信じて救われるように、招き続けられます。

 

 主は、「多くのしるしを彼らの目の前で行われた」のですが、彼らは信じません(日本人も!)。イザヤが、「主の御腕は、だれに示されましたか」(53:1)とか、「神は彼らの目を見えなくし…彼らは…立ち帰らない」(6910)と預言した通りです(→トーマス・フランシス宣教師の福山周辺地域への伝道)。

 

 一方で、「議員(支配階級)の中にもイエスを信じる者は多かった」のは事実です(→ニコデモやヨセフ)。彼らは「会堂から追放されるのを恐れ…公けに言い表わさなかった」のですが、潜在的な信仰者になります(伝道の希望!)。

 

 最後に、「イエスは叫んで…」として使徒ヨハネは主のメッセージを再現します。 ①「わたしを遣わされた方(神)」との一体性(→524「光として世に来た」救い主(→1235「世を裁くためではなく、世を救うために来た」神の御子(→31617)。

 

 「キリストは、初めから光だったが、光としての務めを果すために」(カルヴァン)父のもとから来て、「我に来よ」(517)と招いてくださる救い主です。

2018年1月28日

「たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い…」ヨハネ135

 

 13章から17章までは「最後の晩餐」の記事です。その最初で、主イエスは弟子たちの足を洗い、彼らの心が本当に清くなるように、という願いを示されます。

 

 「過越祭の前」に、主は「御自分の時が来たことを悟り…弟子たちを愛し…愛し抜かれ」ます。「キリストが、まさに死のまぎわに抱いていたと同じ愛情と意志とを、今日も私たちに抱いているのを疑ってはならない。」(カルヴァン)

 

 「夕食の時」になっても、弟子たちは「誰が一番偉いか」と席順を争い(→ルカ2224)、ユダが「イエスを裏切る考え」を持っていることを知って(→マルコ1410)、主は「食事の席から立ち上がって…弟子たちの足を洗い…ふき始められ」ます。一番心の汚れたユダについて、「皆が清いわけではない」と言われます(ユダが最初に足を洗われた?)。

 

 ペトロが、「主よ、あなたがわたしの足を…」と躊躇し、「決して洗わないでください」と足を引っ込めると、「わたしと何のかかわりもないことになる」と、主は警告されます。「手も頭も」と言うと、「既に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい」と答えられます(新生後の罪→Ⅱコリント517)。

 

 私たちは生涯、主のもとに来て(主日毎に!)、「君なるイエスよ、汚れし我を洗い清め」(339)と歌いましょう。